文明の十字路でひそやかに暮らす

中央アジア・テルメズ市にある大学で働いた日々の記録です。

2年半ぶりのテルメズ遺跡めぐり(3)

4月23日(土)(前回から続く)

18:00ごろからホテルのロビーで待つが、誰も来ず。19:20ごろ、学生のFさんから電話があってようやく迎えに来てもらえるかと待っていると、Iさんが来る。そして車でAさんが来て、3人で夕食することになる。Fさんがどうなったのかはよく分からなかった。長くテルメズにいれば、いつかこのあたりの事情も察せるようになるのだろうか。

どこのレストランにするか決めるのに、静かなところと踊れるところがどちらがいいかと聞かれる。個人的には静かなところがいいが、一般的にウズベクのレストランはうるさくても踊れるところがサービスがいいと考えられているので、踊れるほうと答えた。

行ったのは「アジズベク」というレストラン。キーマ(ひき肉)のシャシリク(ケバブ)を食べる。おいしかった。Iさんは日本で働きたいという話を始めるが、これも一般的にウズベク人のあいだで日本に行けば稼げると思われているので、とりあえず話してみたくらいなのではないかと聞き流しておく。

レストランの後は、1階にスケートリンクのあるショッピングモールに連れていってもらう。テルメズのような地方都市にもこんな施設ができていて驚く。しかもコロナ禍の間のことである。

ただ遊ぶところはそんなに多くないと見えて、ショッピングモールを歩いていると、テルメズ国立大学の学生にたくさん会って、挨拶を繰り返す破目になる。おばちゃん3人組にも絡まれ、そのうちひとりのおばちゃんから猛烈アタックを受けるが、なんだか懐かしく感じた。以前サマルカンドに行って夕食に行くとこのようなことがあったが、タシケントではこのようなことはないし、最近のタシケントは経済発展がめざましくさらにこういう雰囲気が減っているように感じる。全体的にテルメズでは以前のウズベク人の気質が残っているようだった。一方でタシケントより自由な感じを受けた。普通は都会のほうが自由なはずだが、なぜそう感じたのか理由はわからない。

23時前、ホテルに戻る。Aさん、Iさんには遅くまで付き合ってもらって感謝。

(左)レストラン、(右)ショッピングモール

(4月23日の項、ここまで)

 

 

 

2年半ぶりのテルメズ遺跡めぐり(2)

4月23日(土)(前回から続く)

ファヤズテパの次は同じく仏教遺跡のカラテパを見学。この遺跡はかつて軍の管理区域内にあったために事前に申請して許可をもらわないと立ち入ることができなかったが、2019年ごろからはそのような制限がなくなり、今はファヤズテパからつながる道路を通ってカラテパに自由に行くことができる。私自身は2019年9月にやっと見学することができたのだった。両遺跡は近く、車なら2、3分の距離だ。

カラテパは1~2世紀に創建されたとされる仏教遺跡(南北420m、東西250m)で、いくつもの建物が組み合わさって建造されているため「僧院コンプレックス(複合群、建築群)」と呼ばれている。

1998年から2016年までカラテパでの発掘調査に従事した加藤九祚は、この遺跡のうち北丘と呼ばれる区画の調査で、大ストゥーパと僧院が組み合わさった遺構の発見に立ち会っている。

カラテパ(北丘の僧院とストゥーパ)
(左)カラテパとファヤズテパ、(右)アムダリア川。奥の水面の向こうはアフガニスタン。

カラテパの後は古テルメズへ。ここは1220年のモンゴル侵攻まで、テルメズの町があった場所。いくつもの歴史的建造物のほか博物館もあり、また敷地全体は公園としてもきれいに整備されている。以前にも訪ねたことがあったが9月の暑い時期に来ることが多かったので、4月に来ると暑くなく緑も多くて美しく見えた。

古テルメズ

今日の遺跡めぐり当初から、ズルマラの仏塔を見たいと同行してくれたテルメズ国立大学の人たちに言っていたのだが、どういうわけかその願いはスルーされ、古テルメズの後はテルメズの中心部に戻り昼ご飯ということになった。Iさんはなぜか古テルメズを出るところから合流。

断食月中なので、一緒に来ていても半分の人は食べず、Aさん、Mさんだけが私に付き合ってくれた。お店も断食月中で客があまり来ないようで閑散としている。シャシリクを焼いてもらって食べた。

食事の後はテルメズ考古学博物館を見学してその後解散。みんなはお客さんの接待から解放されてヤレヤレといったところだろう。車でホテルまで送ってもらう。その際、18:00にもう一度会って、シェラバット区の誰かのところに行くようなことを言われるが、はっきり分からず。

(次回に続く)

 

2年半ぶりのテルメズ遺跡めぐり(1)

4月23日(土)

この日ももし大学に行く必要があればと思って予定を空けていたが、結局大学に出ることはなく、S先生の講座の人たちがテルメズの遺跡を案内してくれた。

きのうは慌ただしくて余裕がなかったがひと晩寝てやっと、泊まっているホテルの様子を落ち着いて観察できた。このホテル「スルホン」はソ連時代からのホテルで、エレベーターはソ連式。旧ソ連の国々の文化・歴史を日本の読者に紹介した加藤九祚(きゅうぞう)の本『シルクロード文明の旅』には、氏が1991年5月にユネスコのシルクロード調査団の一員としてテルメズを訪問したとき、このホテルに泊まったという記述がある。

スルホンホテル
スルホンホテルの食堂・ロビー、エレベーター

7時前に起きて1階のレストランで朝食。朝食のテーブルには断食月中の、日の出と日没の時刻をまとめたカレンダーが置いてある。

さて今日は9時集合という話だったはずだが、Aさん始めみんなが来てくれたのは10時すぎ。9時半ごろ、今日も来てくれそうだったきのう最後まで付き合ってくれた学生Fさんに電話したが結局彼は来なかった。今日付き合ってくれた皆も自発的に案内してくれているのではなくてS先生の命令で案内してくれたのに違いなく、ウズベクの人たちのそういうところの内心を読み解くのはとても難しい。年長者や地位の高い人の命令が絶対的な社会なので、それによって各個人の本心は隠されてしまうことが多い。今日来てくれたのはAさん、Dさん、Mさん。

何はともあれ車で遺跡めぐりに出発。私自身テルメズに来たのはこれで4、5回目で、おもな遺跡はもう見ているのだが、コロナ禍のあいだは来れなかったのでテルメズ自体が2年半ぶり。久しぶりのテルメズ遺跡めぐりということになる。

テルメズ中心部から西北方向に郊外に出て、まずは1つめの遺跡、ファヤズテパへ。ここは1世紀ごろに創建され、5世紀には衰退した仏教寺院の遺跡。縦長(117×34メートル)の僧院と、僧院中央部の北東に隣接する仏塔(ストゥーパ)が組み合わさっている。

ファヤズテパの仏塔(ストゥーパ)

ファヤズテパの僧院

僧院から見た仏塔

(次回に続く)

アフガン国境行き夜行列車(4)

4月22日(金)(前回から続く)

大学見学が終わって16時ごろふたたびAさんに車でホテルに送ってもらう。部屋に入りひとまずシャワーを浴びて落ち着く。そういえば今日は夜行列車でテルメズに着いてそのまま大学を訪れたのだった。

ここに来るまであまり良く考えていなかったのだがテルメズはタシケントより暑い。日差しがタシケントより強く感じられる。そもそもウズベキスタン自体暑く日差しが強い地域なのだが、テルメズはそのウズベキスタンの中でも「一番暑い町」と言われているらしい。元来暑さが苦手で、冷涼なロシア、モンゴルと渡り歩いてきた自分は7年前、ウズベキスタンに住み始めてみて、来る国を間違ったと気付いたが今回はテルメズに来てみて来る町を間違ったことを思い知ったのだった。頭で考えればテルメズに来ることにいくつも理由を付けられるのだが自分の身体には合わない無理な選択をしていることを思い知らされた。

今日は屋外にあまりいなかったはずだがそれでも少し熱中症気味なのか少し頭が痛い。しかしAさんと一緒にホテルまで来てくれた学生のひとりが最後に、夕食を一緒に食べましょうと言ってくれていたのでこのまま寝てしまうわけにもいかず、短い時間でアラームを断続的にかけながらベットで横になる。そんな状態で休んでいると7時になり、8時になる。断食月なので学生が断食しているなら普通でも7時半か、8時くらいからしか夕食が始められないがその後待っても学生からの連絡は来ない。仕方がなく、来るときの列車で食べようと思って食べられていなかった菓子パンのようなものを食べて夕食とする。そしてそのまま寝てしまった。

4月から知り合いのウズベク人の日本語の先生たちと日本語読書会というのをするようになった。テクストは須賀敦子『トリエステの坂道』。私が須賀敦子が好きでウズベキスタンまで本を持ってきていたので、それを無理に読書会のテクストに選んでもらった。12のエッセイからなる本だが、本の題と同じ名を持つ冒頭のエッセイ「トリエステの坂道」を今、皆で読み始めている。初回に読んだ部分で出て来た表現で、参加者が気に入った表現が「……私は、まるで季節はずれの黒い小さな昆虫だった」。このエッセイにも、そして須賀敦子の文章全体にも通奏低音のように横たわっているのはふたつの文化を生きるジレンマだと思うが、この表現は詩人サバのことを理解したくてサバの生きたトリエステに夜の飛行機で向かおうとする筆者がミラノの空港で、ほかのイタリアの都市に向かう便とはまったく違う乗客の雰囲気に戸惑っている描写の中で、比喩として使われている。私はこの地域の歴史、文化、社会などを日本に紹介する仕事をほんの僅かでもできればという思いでテルメズに来ようとしているのであるが、そんなのは頭で考えていることにすぎないんだと嘲うように、現実は私とテルメズの社会との間にある大きな溝を見せつける。それを前に自分も須賀敦子のように「季節外れの黒い小さな昆虫」であると感じざるを得なかった。

(4月22日の項、ここまで)

 

アフガン国境行き夜行列車(3)

4月22日(金)(前回から続く)

S先生はさすがに忙しいと見えて昼食後は足早に立ち去られた。その後はS先生に指示された学生が大学構内の案内を私にしてくれることに。

まずは図書館へ。3階建ての真新しい建物(改装しただけかもしれない)だった。それぞれのフロアを案内されるが開架されている本は教科書のようなものばかりで、日本の大学図書館に並んでいるような専門書は見当たらない。もちろん閉架になっている本もたくさんあるのだろう。ただ、どのフロアの司書の人たちも一様にその開架されている本を熱心に紹介してくれたということは、これらの本が中心なのかもしれない。

続いて寮を案内されるが女子寮。困惑しながらも見せてもらうが、1階や地階にある共用スペースの図書室、娯楽室など。本来は、9月に私がテルメズに来た時に大学寮の中にゲストハウスのような外国からの研究者が泊まれる施設があるので、私もできたらそこに入ったらどうかというS先生の話で、そのゲストハウスを見せてもらう予定だったのだが、おそらく学生たちはゲストハウスについて良く知らずどこでもいいから寮を見せれば良いと思ったのだろう。

いくつかの建物の前を通るが中には入らず、何の学部であるかだけ紹介される。テルメズ国立大学は学生数26,000人以上の大きな大学で学部が14もありキャンパスもここだけではないという話だが、物理・数学学部、英語学部やロシア語学部などの外国語の学部などを通る。

最後に博物館があるというので何かと思って連れられていくと、いわゆる「抑圧犠牲者追悼博物館」だった。タシケントのテレビ塔の近く、ボズス運河のほとりに「抑圧犠牲者追悼博物館」がある。そこには、帝政ロシアが中央アジアを植民地化して以降ソ連時代にかけて、ウズベクの人々がどれだけ政治的に抑圧され犠牲となってきたかをプロパガンダする展示が並んでいる。そのミニチュア版といえるような展示がテルメズ国立大学内にもあるのであった。もしかすると大学でそういう授業もあって授業の教材としてこの展示を使っているのかもしれない。

以前サマルカンド国立大学に行った際には、学内に複数の博物館があって正式名称とは違うかもしれないが、サマルカンドの歴史および大学の歴史を紹介する歴史博物館、考古学博物館、動物学博物館があり、とくに最後の動物学博物館は剥製が所狭しと並べられていて、私がサンクトペテルブルグで留学中に見た動物学博物館を思い起こさせ、帝政ロシアからソ連時代にかけてサマルカンドへ持ち込まれたロシアの学問伝統を髣髴とさせた。

テルメズ国立大学とサマルカンド国立大学では、その設立背景も歴史も異なると思われるので単純に比較できないが、サマルカンドのほうはヨーロッパ風の学問伝統の香りがあるけれども、テルメズ国立大学は国家によって設立され、国家に有意な人材を育成する機関という色合いのほうが濃いのかもしれない。全国の人口約3400万人のうち、人口約18万人にすぎない地方都市の大学に多くを求めてはいけないが、首都のコピーでなく国の出先機関でなく、大学らしく学問をする場所としての雰囲気を作っていくことが「ガイジン」教員には求められるのかもしれない。

(次回に続く)