文明の十字路でひそやかに暮らす

中央アジア・テルメズ市にある大学で働いた日々の記録です。

アフガン国境行き夜行列車(2)

4月22日(金)(前回から続く)

ホテルにチェックインし部屋に荷物置くとすぐ、Aさんがふたたび車で大学に連れて行ってくれる。ホテルからテルメズ国立大学は車だと5分ほど。とても近い。

最初に講座長のS先生の部屋に行って挨拶。部屋に入る前に、テルメズでの考古学調査で旧知のZ先生に声を掛けられる。その後、講座室で講座の先生たちに紹介される。S先生から大げさに紹介されむず痒いが、私のようなどこの馬の骨とも知れぬ者を大学で受け入れてもらうためにはいろいろ「話を盛ら」ないといけないだろうことは分かるので大人しく座っていた。

紹介が終わった後、ひとりの中年の先生が近づいてきてお前は煙草を吸うのかと私に質問した。いや吸わないと正直に答えたが、ああ違ったと思い直し、普段は吸わないが皆が吸うときは一緒に吸う、と答え直した。日本では煙草が害悪と見なされ愛煙家の肩身はどんどん狭くなっているようだが、こういう国ではまだ多くの男性が煙草を吸っているし一服しながら雑談をするというのが必要なコミュニケーションと思われているようである。2年半前に日本でのシンポジウムにウズベキスタンから招待された先生たちに同行したことがあったが、予定の合間にデパートで買い物したときひとりの先生が煙草を吸いたいと言い始めたので唯一喫煙場所のあった屋上まで上がってその先生と一緒に煙草を吸ったが、それも一種の付き合いであった。

続いてS先生が私を大学執行部に紹介してくださるというので大学本部の建物へ。S先生の元学生だという研究・イノベーション担当の副学長にはすぐに会えたが、私の受け入れでおそらく重要な意味を持っている国際担当副学長が、学長との会議に呼ばれていて全然帰ってこない。結局1時間半ほど待ってようやく話ができる。

穏やかそうな若い女性の副学長で、CVを見ています、ビザは問題ありません、とのこと。この町でテルメズ国立大学は権威があるようで、公的な手続きなどはスムーズにできそうな印象を受けた。

その後はS先生と学内の食堂で昼食を取る。学食といっても、調理場は屋内だが日よけのある屋外にテーブルが並べてあるという造り。S先生は先に学生に命令して場所や食事を用意させている。学生は素直に言うことを聞いているが彼らは断食を守っているので食べない。申し訳ないなと思いつつS先生と食事する。S先生は来るときの列車の年長の先生と同じくソ連を生きた世代で断食はしていない。ロシア語が苦手で私と話そうとしない学生に対してS先生は話し始めた。

S先生はかつてサマルカンドにある考古学研究所で働いていたそうだが若き頃、そこから数ヶ月、当時のレニングラードに派遣されたそう。レニングラードに行くと、真面目なS先生は図書館に籠ってずっと本を読んでいた。自分の先生と電話で話したときにそう報告するとその先生は「おい、本なんかサマルカンドにあるから、お前は町に行って、女の子とダンスでもしてなさい」と言ったそう。そのときレニングラードはちょうど白夜のころで、夜遅くまで明るい町に繰り出してロシア人は遊んでいる時季。それでも真面目なS先生は図書館に籠って本を読んでいたが、数週間後に自分の先生と電話で話したときにもふたたび、本なんか読まずに町で遊びなさいと言われ、仕方が無く町に出てロシア人とダンスして楽しんだそう。それまでロシア語は読めたがあまり話したことがなく話すことに自信がなかったS先生だったが、それをきっかけにロシア語で話せるようになったという話。

ロシア語に自信のない今のテルメズ国立大学の学生に、私とロシア語で話すよう説得するためにこのような話を持ち出したS先生。会話の上達法ということでは正しい話だが、今のウズベキスタンの学生はS先生の若いときと置かれている状況が違うので、この話を聞いて微妙な心持ちだったかもしれない。

ソ連時代、それぞれの民族共和国がありウズベキスタンもそのひとつだったが、実際のところはモスクワの指示のもとで動いており公的な場ではロシア語が使われていた。そのような社会ではヒエラルキーの上に行くためにはロシア語ができることが必須だっただろう。そして独立後のウズベキスタンでも初代大統領I.カリモフのもとではロシア語が公的な場所で使われ続け、公的な会議もロシア語でおこなわれていた。もちろん大統領自身もロシア語で話していた。

しかし今の、第2代大統領S.ミルジヨエフは公的な場所でウズベク語を話しはじめた。彼はカリモフ前大統領のもとで首相の地位にあったので、当然そのときはロシア語で話していたはずだが、自分の治世になると方針を切り替え公的な場での使用言語をウズベク語とした。役所での文書ではまだロシア語も使われているが次第にウズベク語の文書が多くなってきている。こうした社会状況の中で今の学生たちがロシア語を学ぶ動機は以前より下がっているはずである。

そもそも前大統領の時代ですら、地方からタシケントに来る学生はロシア語ができない人が多く大学に来てから苦労していた。首都タシケントはロシア語を話す非ウズベク人の人口が今でも約4割を占める(wikipediaにある2008年の統計による。一方、国全体人口における非ウズベク人の割合は2017年の統計で約16パーセント)。タシケントではロシア語が共通語として生きており、ウズベク人の学生でも幼いころからロシア語を話す機会があり、ロシア学校(ロシア語でロシア式の教育をおこなう学校)に行って教育を受ける人も多い。しかし地方ではロシア人が少数で共通語としてのロシア語を学ぶ機会も、必要も少ないであろうし、ロシア学校もタシケントほどは多くないだろう。

S先生はウズベクの歴史を学ぼうとすれば、先行研究がぜんぶロシア語なので必ずロシア語を学ばないといけないと話されていた。たしかにそれは正しいが、ウズベキスタン全体でロシア語が共通語の地位を失っていっており、この傾向は不可逆的なものであることを考えると、ロシア語だけでウズベクの歴史を学ぶ時代は終わりを迎えつつあるだろう。

これからの時代はウズベク語でウズベクの歴史を学べるようにしていく必要がある。しかしウズベク語による先行研究が少ないのならば、ロシア語の先行研究も引き続き読まないといけないのも当然である。ただロシア語は読めればよいということになるので、ロシア語との付き合い方は変わってくるだろう。一方でこれまではロシアの学界のみを向いていたのでロシア語だけで研究すれば良かったが、今後は他国の研究者とも付き合うために、英語やその他のヨーロッパ諸語での研究も理解していく必要があるだろう。

S先生は9月から私が担当することになる授業はロシア語でやればいいと言い、普段もロシア語で話して学生の刺激となってほしいという意向だったが、このような今の状況やまた実際のところ学生たちがロシア語があまりできない様子を見ると、私のほうがウズベク語をよく勉強して自分の考えるところを伝えていかないといけない。そんなふうに今回のテルメズ行きを終えて思っている。
(次回に続く)